心もとない仲間

今朝は遅めの起床。
寝すぎた訳ではなく、昨日に起き過ぎたが故です。

今日は打ち合わせ三昧だった、昼、夕方、日の入り、宵の口、夜、と5つのミーティングを終わらせてこのブログを書いている今はTen to two,,,2時前10分である。
代官山のうちの店のアート部門と、飲食部門のてこ入れをするために、現在は様々な人と話しをしたい時期の僕はどこにでも足を運ぶ。

久しぶりに会う人、常に会っている人、またネット上で頻繁に情報交換はしているが実際にはあまり会っていない人、それぞれの関係は違えど、言う事はやはり似ている。
言う事とは、僕が聞く事へのリアクションである。

やはり人間は、ある意味一つにつながっていると言えるのではないか、、、、
そして、大きな河の流れに逆らえない様に、産まれてきた人が死んで行く様に、時間の流れには人は逆らえないのではなかろうかという事にたどり着く。

今日も坂口恭平さんの著書を読んでいる。
「創造の定義」という項目があって、そこにはこう記されている。

「人生はやりなおしがきなないと僕はおもう」

ぼくもどちらかというと同じ考え方だ。
過ぎて行った事実は帰る事は出来ない。
今を親権に生きる事が出来ない。
同じ事でも、10年前にやる事と、今やる事では、まったく価値も意味も違ってくる。

つまり今は一つしかないということ、その今出来る事は一つしかないということ。
やり直し」という意味で言うと、また別の時間軸で同じ内容を行う事は可能だけど、
それでは既に時間軸が違ってきている。

みんなもわかると思うけど、
”今”なにかをする事と、みんなが”30年後”に何かをする事では、
その何かが何であろうとも、決して同じではない。

今何をするかは、自分にとって大きな意味を持つ。

逃げたいやつは逃げて、歩きたいやつは歩いて進めばそれで良い。

この話しは僕の好きな五木寛之さんの”大河の一滴”にもつうずること。
気になる人は是非読んでもらいたいです。