俵屋宗達/風神雷神

Fujinraijin-tawaraya.jpg

"Fujinraijin-tawaraya" by 俵屋宗達 (Tawaraya Sotatsu, ? - ?) - Brother Sun , Sister Moon. Licensed under Public domain via ウィキメディア・コモンズ.

概要[編集]

蓮池水禽図
宗達は尾形光琳と並び称せられる、近世初期の大画家だが、その知名度の高さと後世への影響の大きさに比べ、その伝記には不明な点が多く、生没年さえわかっていない。おそらく、親交のあった角倉素庵烏丸光広と同年代、1570年代かその少し前の生まれと推定される。京都で「俵屋」という当時絵屋と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵など、紙製品全般の装飾を制作していたようだ。同時代の仮名草子竹斎』には、この頃京都で「俵屋」の扇がもてはやされたと記されている。
しかし、宗達は単なる扇絵職人ではなく、慶長7年(1602年)5月に福島正則の命令で行われた平家納経の修復に関わり、その内3巻の表紙と見返しの計6図を描いたと見られる(史料上確認出来る宗達の事績の初見)。皇室からも作画の依頼があり、元和2年(1616年)、後水尾天皇狩野興以に貝合わせの絵を描くのを命じた際、参考の一つとして「俵屋絵」を見せたとの記録が残る[2]
また、当代一流の文化人であった烏丸光広や本阿弥光悦[3]らの書巻に下絵を描き、嵯峨本の出版にも関与したらしい。少なくとも寛永7年(1630年)には町の絵師としては異例の法橋の位が与えられていたことがわかっており、当時から一流の絵師とみなされていたことは疑いない。当時有数の茶人であった、千少庵を茶の湯に招くほどの教養人でもあったようだ。宗達死後は、俵屋宗雪が工房の後を継いだ。宗雪は寛永19年(1642年)既に法橋に叙されている事から、宗達はこの少し前に亡くなったと考えられる。